どんな味?

2013/07/30 | Categories:ブログ

 

最近、とても素敵な文章に出会いました。

 

「伝統的な徒弟制度の中で弟子をするという事は、人生のほんの数年間、自分というもの
を徹底的に消し去り、自分の好みやセンス、個性も、一切関係無い。
自分のものを作ったり、表現したりということを考えることすら無い。
親方ならこう考えるだろう、こうするだろうと、ただそのことだけに集中して手を動かす。
やがて、弟子になる前にこだわっていたこと、考えていたことがなんてつまらないことだったのかと感じるようになる。
弟子とは、何かを教わる者ではない、小さな自己を捨てる者なのだ。」

 

 

 

 

 

初めて、もの作りの世界に足を踏み入れる若者にとって、このような考え方を、
初めから受け入れられる人はほぼ居ないと思います。
よほど人間のできた人か、天才か、はたまたその逆か。

大抵は「自分だって出来る」、「出来ないレッテルを張られたくない」と自分で自分を立ててしまうのが普通ではないでしょうか。私だってその当事者です。
しかし、経験を重ねていくにつれて、この文章の意味するものがお腹に落ちてきました。
伝統と名の付くものに、だんだんと魅かれていくのがよく解ります。
自己を表現するよりも、素晴らしい技術を真似してみたい、同じように作ってみたいと思うようになりました。なぜかというと、きっと、出来ない自分を12年かかってやっと受け入れられたのだと思います。

 

自分を捨てる事。初めは抵抗があります。頑丈な鎧を着ていたのかもしれません。
しかし、裸になった人だけが得られる強さが有るように感じます。
「着飾るものなど何も必要なかったんだ。」と、山や谷を味わった人の作品は、やっぱり観る人には解るのではないでしょうか。
私は、今からでも間に合うと信じて、ひとつひとつ、地に足をつけて、もの作りを続けていきたいのです。今は貧乏でも良い、将来きっとお金持ちになりたい、若いうちは美味しい味よりもくやしい味で良いと思っています。鉋を潰すほど仕事をしてみたいかも、福西でした。


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